バールのようなもの

短編集『春夢-ハルユメ-』後編

―――桜の美しさに誰もが目をやって気付かないだろう、その小さな白い何かはふらふらと微妙に移動をしているようだった。

近寄って見るとそれはどうやら犬の様だった。毛は白くそれほど長くは無い。まだそれ程大きくなく1歳と言った所だろうか?

首輪は見えずどうやら野良であるらしい。(まだ小さいのに野良犬だなんて・・・)

かわいそうになって近くへ寄ってみるとさらに様子がおかしいのに気がつく。随分と足取りが重いのだ。

「まだ小さいし、それもこんな場所だ。きっと餌のとり方も分からずお腹が空いてるのかな?」

その小さな体を抱き上げるとそれは想像以上に軽かった。虚ろな双眸が俺を捉えているのが分かる。それは獣医の卵である俺に助けを求めている声に思えた。

(ここで見捨てる訳には・・・いかないよな。)俺はそのままその小さな体を抱きかかえ桜並木を走り出した。



「ただいま。」かなりのリスクを伴いながらも習慣であるのだから帰着の挨拶を言い家に入る。

ここでばれたら何の処置も出来ずに追い払わされてしまう。それではかわいそうだから捨て犬を拾った小学生と変わらない。

俺はそんな軽いものではない。命を救う、とまで言えば大袈裟かもしれないが兎に角どうにかしてやりたいのだ。

何とか無事部屋にたどり着くと犬を床に寝かせ少し様子を見る事にする。

口の中を覗いたり腹や足を触ってみるがこれと言っておかしな所は見当たらない。やはりただの空腹だろう。

「ちょっとここで待ってろよ。」軽く頭を撫でて言うと答えたのか犬はくぅんと弱々しく鳴いた。

それから俺は部屋を出るとキッチンへと向かう。

そこでは俺の母、寛子が夕食の準備をしていた。「どうしたの?」この様子じゃ何か食べ物を調達するのは難しいな・・・

「いや、なんでもないよ。ちょっと出かけて来る。」タダ飯を諦め俺は財布をポケットに押し込み再び家を後にした。

「夕飯前に戻ってくるのよ。」「分かってるよ、子供じゃないんだから。」「まだ親のスネかじってるくせに何言ってるんだか?」

「家から通えるんだから無駄に金使う必要ないだろ、ったく。行ってきます。」

何かと母は俺を子供扱いする。まぁ確かに俺はあの人の子供なのだが、俺だってもう19歳、十分大人だ。

まぁ確かに周りのやつよりちょっぴり、自立性が足りないかも、しれないけど・・・

ぷるぷると頭をふるい思考を飛ばす。今はそれよりあの犬だ。元気が無いとは言えちょっと歩き回って、あるいは万が一母さんが俺の部屋に入ってくるような事があれば

それでもうTHE ENDだ。そんな終わりは嫌だ。何せあいつは、どんな軽いものといえど俺の最初の患者なのだから・・・

急いで近場のコンビニへと向かう。あの様子だと水分もろくに採っていないだろう。歯は大分丈夫そうだったのである程度のものは大丈夫だろう。

ようやくコンビにへ辿り着くと手頃なドッグフードと水を手に取りレジへと向かう。

会計を済ませ急いで家へ帰る。頼むから見つからないでくれよ・・・

ビニール袋をしっかり抱え帰路を急ぐ。往復15分程で家に辿り着いた。「・・・ただいま。」「お帰り。」

母から返事が返ってくる。声は普通そのもの。この様子なら多分見つかっていないだろう。しかし、この荷物が見つかる時点でまずいか。

ドッグフードなんて犬しか食べないんだし。最悪の事態が頭を過ぎるがそれは杞憂に終わりすんなりと部屋へと戻る事が出来た。

部屋に入ると白い小さな犬は俺の言いつけどおり、一歩も動かずに待っていた。まぁその元気が無かっただけかもしれないが。

「よしよし、ご飯買ってきたからな。」頭を撫でて言い聞かす。動物への接し方は愛情ありきだ。

ボディタッチと優しい言葉を掛ける事。動物にだって心があるのだから心理状況で体調だって良くも悪くもなるのだ。

ドッグフードを開け掌に乗せて口の前に差し出す。「ほら、お食べ?」しかし腹が減っているはずなのにこの子はなかなか食べてはくれない。

野良だとしたら、もしかして知らない物だから少し警戒してるのか?臭いで食べ物だとちゃんと分かる筈なのだが・・・

それとも、ちょっと硬いかな?ドライのため小さい犬には少し厳しいかもしれないし、歯は大丈夫でも顎が弱っている可能性もある。

適当な容器を探すが何も無かったので、ドッグフードの缶に水を少量入れて指でかき混ぜる。そうして出来た少しゆるくなったそれを掌に少量乗せる。

するとようやくひくひくと鼻を鳴らしそのまま一口ぱくりと食べた。それからは一気に空腹が襲ってきたのか勢い良く食べだす。

あっという間に食べ終わり俺の掌をぺろぺろと舐め始める。「待て待て、ちゃんとまだあるから。」それから少しずつ掌に乗せては食べさせるを繰り返した。

一気に食べ終わると犬は幸福そうにくたぁと寝そべってしまった。「可愛いな。」頭を軽く撫でてやる。すると顔を上げてこちらを大きな瞳で見つめてくる。

本当に愛い奴よのぅ。「どれっ!」優しく抱き上げると自身も寝そべり胸に乗せる。すると、のそのそと俺の胸を歩き口をぺろぺろと舐めだす。

不安定な足場と言うこともあって少し足取りがおぼつかないがそれでもちゃんと歩けている。この様子なら、大丈夫かな?



「ちょっと待ってよ!」俺のあげた大声に犬がびくっと体を震わせた。しかしそれに続くさらに大きな声に一層驚いてしまう。

たどたどしい足つきで俺の後ろに隠れる。最悪の事態、母さんに見つかってしまったのだ。案の定逆鱗に触れてしまい有無を言わさず「かえしてらっしゃい!」だ。

こうなる事は分かってはいたが・・・ちょっと早すぎたな。「あんたね、和が何を目指そうとお母さんは否定はしないけどね、家には動物は駄目だって言ったでしょ?」

「・・・分かってるよ。」「分かってないわよ。」こと動物の事となると本当に母はヒステリック並に取り乱す。そこまで嫌いなのかと悲しくなってしまう。

逆にその息子の自分が何故ここまで動物好きなのかが分からないが・・・「分かった・・・おいで。」犬を抱き上げるとゆっくりと玄関をくぐり外へと向かう。

結局何も出来なかったな、俺。これから自分が捨てられる事など分かっていないこの子は相変わらずつぶらな瞳で俺を見つめてくる。そんな目で・・・見るなよ。

俺は何もしてやれないんだからさ。暫くとぼとぼと歩いていると気付けば最初にこの子と出会った桜並木へと足を運んでいた。

相変わらずそこには美しい桜が咲き誇っている。今の時期、桜を見る人が多いから、ここなら誰か拾ってくれるだろ・・・

顔の目の前まで抱き上げその顔をじぃっと見つめる。すると犬は俺の口をぺろぺろと舐めだす。本当に、分かってないんだな。

「俺がお前にしてやれる事は・・・」くぅと小首をかしげる様が何とも可愛らしい。そんなこの子を俺は・・・「お前の名前は・・・ハルナだ。」

野良のこの子に名前をつけてやれる事ぐらいか。この春に出会った小さな犬。ぺろぺろと良く舐めてくれる人懐こい子。そんな意味を込めて。まぁ悪く言えば安易だけど・・・

「じゃあな、ハルナ。」そっと地面に降ろすと俺は背を向け振り向かないと誓い歩き出す。アスファルトにぴたぴたと小さく響く足音は何時まで経っても離れない。

やっぱり・・・ついてきてるのか。俺は謝罪の言葉だけをその場に残し一気に桜並木を駆け抜けた―――

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「でも・・・どうして君は?」「分かりません。ただ私がそう願っていたから・・・」「でも、だからってこんな事が・・・」「はい、起こる筈がありません。だから・・・」

そう言って春菜はすっと手を胸の前に持ってくる。その手は薄っすらと透けて胸が、いや胸すらも透けて奥にある桜の木がぼんやりと見えた。「私はもう戻ってしまいます。」

「え・・・?」「全ては元に戻るんです、無かった事に。」「じゃあ、俺は君の事を忘れるって事か?」「それは分かりません。ただ、忘れていても覚えていたとしても、これは夢でしかないんです。ちょっと不思議な、でもただの夢なんです。」

「夢・・・?」「そう、夢です。夢は覚えていてもいなくてもそれは現実ではないんです。」「そんなっ!だって君はこうして、俺の目の前に居るじゃないか!?」

「だからそれは夢なんですよ。私が願ったから起こった、あなたに愛して欲しいと願ったから・・・でも違ったんです。これはあなたに愛してもらうためなんかじゃなく

愛されないと言う事を知らしめる為だったんですよきっと。」「そんな事はない!俺はっ、君の事が・・・」「好きですか?違いますよ。」「違わないッ!」

俺は一気に彼女の手を引き寄せそのまま抱きしめた。周りに人が居ない事が幸いしたが、居たとしても俺がする事に変わりは無かった。

「君は今こうして俺の目の前に居て俺に温もりを、鼓動を伝えてくれている。確かに今君はここに居て、そして俺は君を愛している。」「おかしいですよ、私人間じゃないんですよ?」

「そんな事関係――」「関係ありますよ。人間は人間しか愛せないんです。だってあなたが今見ているのは人間の私じゃないですか。」「それはっ!」

叫ぼうとするが春菜が俺から逃げるように押し離して行く事でそれを中断してしまう。「ずるいですよ。どうして・・・どうしてそんなに和人さんは優しいんですか?」

「優しいもんか。今君を困らせてるんだから。」「ふふっ、そんな事無いですよ。和人さんは優しいです。」「春菜がそう思うから、か?」「そうです。」

静かに呟いて今度は春菜の方から俺の胸に納まってくる。「春菜・・・」「和人さん・・・」俺たちは2人を繋ぎ止めるように互いの名前を呼び合った。

それから自然に離れると春菜はゆっくりと、瞳から零れる涙のように静かに呟いた。「私、和人さんの事好きですけど嫌いです。だから和人さんも私を嫌いになって下さい。」

「なれる訳―――」「なって下さい。」いっそう大粒の雫が伝った。彼女だって、辛いのだ。それを俺は・・・「分かったよ。俺だって・・・春菜の、ハルナの事なんて嫌いだよ。」

「私、昨日言いましたよね。今が一番幸せだって。あれも・・・嘘です、から。」「・・・」「今度拾われる時は、絶対にあなた以外の人に拾われて、絶対に幸せになるんだから。」

最早春菜の目からは止め処も無く涙が溢れていた。「そんなに泣くなよ。」そっと頬に手を当て親指で涙を拭ってやろうとするが視界が歪んで上手くいかない。

「和人さんだって泣いてますよ。それはもう思いっきり。」春菜は両手で俺の顔を掴むとつつつと舌を這わせて俺の涙を舐め取った。「春、菜ぁ・・・」

俺は堪え切れず情けない声を漏らす。「駄目ですよ。人と動物が交わる事なんて無いんですから・・・だから、和人さんが私を求めた時にそれはありえない事として処理される。

今は人の容をしていても私は人ではないのですから。だからその時は・・・」「君が、消える・・・」春菜は静かに、だが確かにこくんと首を縦に振った。

風が一陣強く吹きつけた。小さな花びらが幾つも舞う。俺は思わず目を閉じた。閉じてしまった。「さようなら・・・」すぐ近くで声が聞こえた。それなのにそこには誰も居ない。

さっきまでこの手にあった筈の温もりは・・・もう無かった。「馬鹿、野郎・・・」

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数年後・・・

「先生、大丈夫ですか?あんまり緊張しなくていいですよ。」「あ、はい。分かってますよ。」看護士に宥められて新米の医師は軽く深呼吸を2、3する。

「動物は敏感ですから先生が緊張してると動物も緊張しちゃいますよ。」「それは・・・骨身に沁みて分かってますよ。」とは言え少し緊張はするなやっぱり。

念願の獣医になって初めての診察、初めての患者だ。そしてふと、あの時の事を思い出す。俺は今、ちゃんと目指すものになったよ。

君は・・・今どうしているんだろうか?あの後、家に帰ると皆君の事を覚えては居なかった。ただ俺だけが覚えていた。夢を見たんだろうとも言われた。

だけど、あれはきっと夢なんかじゃない。そう思うんだ。

緊張した気持ちを白衣と一緒に正すと診察室へ向かう。しかし・・・その緊張は次第に別の感情へと変わっていった。

とりあえず気を取り直し話を聞くと、最近年のせいか少し体が弱いらしく軽い怪我を良く負ってしまうらしい。

飼い主の女性はとても心配そうに事を話してくれた。「大切にしてらっしゃるんですね。」俺の問いに女性ははいと気持ち良く答えた。

そして今度は犬の方へと顔を向ける。するとその犬はこちらを向くと頭を垂らし目を泳がせた。症状自体は大した事もなさそうだ。

「これなら心配ないですね。大丈夫です。」少し重いその体を抱き上げ顔の位置まで持っていく。するとその犬はやや躊躇ってから一度俺の頬を舐めた。

「これからも大切にしてやってください。動物は愛情を敏感に感じ取りますから。それと・・・」女性ははい?と首を傾げた。「つかぬ事を伺いますがこの犬、どうされました?」

「その・・・拾ったんです。結構前になりますけど・・・この子、ずっと鳴いてたんです。悲しそうに。それでこの子に気がついたんです。」

「そうですか・・・分かりました。それでは今日はもう大丈夫です。何かあったらまた来て下さいね。」笑顔で手を振って見送る。

女性は愛犬、白くて大きくなった犬を抱えて歩いていく。その背中に、いやその犬に向けて小さく呟いた。「今君は幸せか?ハルナ・・・」

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後書き
うわぁ・・・時間に間に合わせるためにオチがオチてない・・・もっと締まった台詞で終わらせる筈だったのに・・・つくづく無力さを噛みしめる思いです。
まぁそんな事は置いといて、キャラ紹介で一応出た父母、全然出番無いやんけ・・・
えーっと、でこの作品。用はヒロインが犬な訳ですが、まぁ結局あの現象がなんだったのか?
それは・・・皆さんのご想像に任せます。世界の不思議です、きっと。

まぁ、それはそうと・・・大学の雰囲気とか獣医とか、知りもしない事を扱ったので全然違う事と思います。
まぁそこら辺は・・・この世界はこういう設定なんですよ!地球じゃないだ、そうだ!だって犬が人間になっちゃうんですもの。
と苦しい言い訳をしてみる。

と、そんな訳で。短編史上最長の今作も一応終わりを迎えました。
普通に終わった筈なのに打ち切り最終回みたいな雰囲気ですが・・・まぁそこら辺は銀河よりも広い心で見逃してやってください。

では、また会う機会と気持ちがあれば・・・

H18.7/9


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